数ある候補地から静岡県小山町を選び富士スピードウェイ建設は動き出した
1963年5月に鈴鹿サーキットで、最初の4輪レースとなる第1回日本グランプリが開催された。レースは2日間で計11行われ、20万人もの観衆が詰めかけた。そして翌64年5月に開催された、第2回日本グランプリはレースのレベルが大幅にアップしたこともあり、2日間の観客動員数は24万人
に上った。
自動車産業の発展とともに、高度成長の波に乗る日本でもモータースポーツに対する関心は高まっていた。それに後押しされるように、首都圏から近い場所にサーキットを建設しようという動きが出てきた。こうして具体的な建設案が上げられ、1966年に静岡県小山町にオープンしたのが富士スピードウェイだ。同時期に動き、完成に至ったのは1965年オープンの船橋サーキット(千葉県船橋市)がある。
富士スピードウェイ建設に向けた第一歩は、当時自動車部品の輸入代理業に携わっていた在日アメリカ人、ドン・ニコルスが母国で行われていたストックカーレースを日本へ持ち込もうとしたことだった。その開催場所として、オーバルコースの建設に乗り出し、1963年12月18日に日本ナスカー株式会社を設立。翌年1月には、アメリカのナスカー株式会社と技術並びにレース運営に係わる契約に調印し、会社の上層部はフロリダ州のデイトナ・スピードウェイを視察。そこで、ベテランのコース設計者であるチャールズ・マニーペニーにコースレイアウトを依頼。同年6月には、候補地の中から静岡県小山町の地が選ばれる。
オーバールコースからヨーロッパタイプとの折衷案に
準備が着々と進む中、1964年にF1などで活躍したスターリング・モスが来日してコースを視察。彼の助言を参考にしながら、コースレイアウトの見直しが図られ、最終的に純粋なオーバールコースは日本のレースに適さないと判断された。それにより、1965年2月にナスカーとの契約を白紙解除し、会社名も富士スピードウェイ株式会社に変更。コースレイアウトは、アメリカのオーバル的な要素とヨーロッパタイプのS字コーナーやヘアピンを配した折衷案で落ち着くこととなった。
こうして着工された工事は、富士の裾野の約150万坪という広大な敷地で、尾根を切り崩した土で谷を埋めるという、想像を絶する造成作業が行われた。切り開かれた地面には、1周6㎞のコースが敷かれ、舗装作業も進んでいく。あわせて、グランドスタンドやピット、コントロールタワーなどの建設も進められた。広大な土地を舞台に繰り広げられた工事は、様々な困難もあったが、関係者が力を合わせて乗り越えながら、1965年12月にようやく完成の運びとなったのである。